古都の名残を求めて

古都の名残を求めて

古都奈良の雰囲気の残る場所をフィルムやデジタルで記録したモノクローム写真のブログです。

「わたしの2022年(山の辺の道と柳本古墳群)」 

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」と題して、はてなブログからお題が出ていた。今年の僕の総括として「わたしの2022年」だけを取り出し、『山の辺の道と柳本古墳群』と題して記事を書いてみた。

山の辺の道沿いには、いくつかの古墳群が存在する。この地域は大和の豪族や大王家の陵墓が多く存在するので、ヤマト政権の中心地と見る考え方が現在では主流である。その中にあって、この一年における山の辺の道散策の中で僕が興味を持ったのが、「柳本古墳群」である。

この古墳群に興味を持つきっかけとなったのが、「黒塚古墳」である。この古墳は未盗掘のまま発見され、銅鏡である三角縁神獣鏡33枚と画文帯神獣鏡1枚の合計34枚が見つかったという物凄い古墳である。この大量の鏡は、卑弥呼が魏という国家から送られた100枚の銅鏡の一部ではないかなど様々な仮説が立てられているが、黒塚古墳の衝撃的な発見は、ヤマト政権との関わりがどんなものであったか、鏡外交が当時の倭国全体で行われていた可能性など様々な謎が提示され、大変僕の興味を惹いた。黒塚古墳の実態を知りたいと思い、この古墳の隣にある「天理市立黒塚古墳展示館」に何度か足を運んだ(JR柳本駅から歩いて約10分のところにある)。そのうち、この一帯が「柳本古墳群」とよばれる場所であることが分かってきて、ますます面白くなっていった。山の辺の道は、僕自身学生時代に遠足で行ったきり忘却の彼方であったが、黒塚古墳への興味が一気に柳本古墳群、山の辺の道への興味へと発展した。

柳本古墳群の一つである黒塚古墳にて

以下、「柳本古墳群(13の古墳群)」の一覧である。引用したのは、『大和の古墳Ⅰ(新近畿日本叢書 大和の考古学 第二巻)奈良県立橿原考古学研究所 監修 泉森皎 編』〔人文書院〕からである。

古墳名 墳形 全長(m) 時期 前方部の向き
黒塚古墳 前方後円墳 130m 前期 西
櫛山古墳 双方中円墳 155m 中期 北西
行燈山古墳(崇神陵) 前方後円墳 242m 前期 北西
アンド山古墳 前方後円墳 120m  
南アンド山古墳 前方後円墳 65m  
天神山古墳 前方後円墳 103m 前期
ヲカタ(オガタ)塚古墳 前方後円墳 55m   北東
ノベラ古墳 前方後円墳 69m  
石名塚古墳 前方後円墳 111m  
シウロウ塚古墳 前方後方墳 120m   西
上の山古墳 前方後円墳 144m 前期
渋谷向山古墳(景行陵) 前方後円墳 300m 前期 西
柳本大塚古墳 前方後円墳 94m 前期

三番目の行燈山古墳は崇神天皇陵、12番目の渋谷向山古墳は景行天皇陵とそれぞれ治定されている。上から六番目の「天神山古墳」は、内行花文鏡や画文帯神獣鏡など23枚の鏡などが出土していて、黒塚古墳とともに鏡を大量に埋納した古墳として貴重である。しかし、この古墳の東半分は、国道建設に伴い削られてしまった。古墳内部には遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に行燈山古墳(崇神天皇陵)があるため、同陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)とも考えられている。近くのアンド山古墳、南アンド山古墳も行燈山古墳の陪塚と考えられている。

渋谷向山古墳前方部とその拝所

その他、僕が興味を持ったのが、それぞれの古墳の前方部の向きである。東に位置する龍王山に向かって建設されているのかと思いきや、全然違っていて、どういった法則性があるのか分からない。先人たちの知恵と技術には、現代人を超越した何かがあるような気がしてならない。こういったことを想像しながら山の辺の道を歩いた一年、柳本古墳群における散策の楽しさを存分に味うことができた。おススメの散策道である。

撮影機材:どちらも LeicaMMonochrom(Typ246)+Summaron 35mm f/3.5(M)

人気ブログランキング