古都の名残を求めて

古都の名残を求めて

古都奈良の雰囲気の残る場所をフィルムやデジタルで記録したモノクローム写真のブログです。

大官大寺九重塔の跡地

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大官大寺跡にて

大官大寺とは、もともとは舒明天皇(天武天皇の父)が建立したとされる『百済大寺』がその起源とされ、その後、新たに高市の地へ移し建てた『高市大寺』になったと言われている。しかし最近では諸説があり、高市大寺の存在そのものが疑問視されている。さらに壬申の乱で大友皇子に勝利した天武天皇(=大海人皇子)が677年に高市大寺を大官大寺と改めたとされている。

「大寺」とは私寺に対する官寺を意味していて、「大官大寺(だいかんだいじ)」は「おおつかさのおおてら」ともよばれ、「大官=おおつかさ」とは天皇をさす言葉でもある。天武天皇の崩御後、その遺志は持統天皇・文武天皇へと引き継がれ、大官大寺は再び場所を移して、今回写真撮影した明日香村小山(香具山の南約700メートル)の地に造立された。

この大官大寺と薬師寺(現在の本薬師寺)は、藤原京の官寺の双璧であり、その発掘の規模の大きさから、当時天武天皇が都造りを進めるにあたって、重要な意味を持つ巨大寺院であったことが想像できる。写真の跡地は大官大寺の九重塔があったとされる場所である。塔の基壇が一辺約35m、塔は一辺15mとなっており、九重塔にふさわしい規模を誇っている。ただし高さは分かっていない。現在に残る京都東寺の五重塔が高さ54.8メートル、奈良興福寺の五重塔が50.1メートル、京都法観寺の五重塔(八坂の塔)が49メートルとなっている。大官大寺の九重塔はおそらくそれ以上の高さだったと考えられるが、建築物の高さと大きさのバランスなどから考えると九重塔が存在できたのかどうかはやや疑問が残る。実際にこの地の大官大寺は、天武天皇の時代には完成しておらず、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には大官大寺の金堂は文武天皇の時代にできたと記述されている。まだまだこの寺院については分からないことが多い。撮影機材は、LeicaMMonochrom(Typ246)+Summilux 35mm f/1.4(2nd)である。

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