古都の名残を求めて

古都の名残を求めて

古都奈良の雰囲気の残る場所をフィルムやデジタルで記録したモノクローム写真のブログです。

薬師寺東院堂の基壇

薬師寺東院堂はもともとは奈良時代に建立された建造物で、後に鎌倉時代に再建され現在に至っている。以下、薬師寺の公式サイトからの引用である。

 東院堂は、養老年間(717~724)に長屋王の正妃である吉備内親王が母の元明天皇の冥福を祈り建立しました。 現在の建物は弘安8年(1285)に正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、南向きで再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに変えられました。鎌倉時代後期の和様仏堂の好例です。

 とある。長屋王といえば、悲劇の皇子として、香芝市にある二上山に葬られた大津皇子と通じるものがある。どちらも実務能力の高い皇子として生前は評価が高かったはずである。しかし、大津皇子は持統天皇に陥れられ、長屋王は藤原四兄弟(藤原四子)により権力闘争に敗れてしまった。歴史に「もしも」はないが、この有能な二人の皇子が陥れられることなく政務にしっかりと携わっていれば、日本史の流れも変わっていたかもしれない重要な人物たちである。長屋王の正妃である吉備内親王も、729年に起こった「長屋王の変」により追い込まれ、3人の息子達と共に縊死した。長屋王と吉備内親王は共に生駒山に埋葬された。この辺りの歴史について独自の歴史観でその真相に迫っている小説が、永井路子さんの『美貌の女帝』である。蘇我氏の一派でありながら、乙巳の変で中大兄皇子側についた蘇我倉山田石川麻呂を源流とする氷高内親王(後の元正天皇)を主人公としたドラマの展開は大変興味深いものがある。この小説の中で、徐々に追い込まれていく長屋王とその妻であった吉備内親王の心の機微がうまく描かれている。写真はその古都の名残を彷彿とさせる薬師寺東院堂の基壇である。石の質感に惹かれて撮影した。撮影機材は、ライカMモノクローム+Summicron 50mm f/2(2nd)。

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薬師寺東院堂の基壇